「趣味は俳句です」と言ってみるテストを楽しんでいます。相手の反応が少し面白いので。
「それでは、ここで一句!」と言う人。
「松尾芭蕉ですね」と言う人。
「プレバト観てます」と言う人。
なかなか「自分もやってます」という人には出会いません。あ、患者さんは別ですよ。ご高齢の方には一定の割合で俳句を楽しんでおられる方がいて、回診のときなどベッドサイドに歳時記があれば「おや、あなたも」といくらでも話が膨らみます。
*
噂によるとプレバトとかいうテレビ番組のお陰で俳句の『姿』を知る人が増えたとのことですが、それでもボクは、世の人の大半は「ちっとも俳句を分かってない」と言いたい。何様かと叱られそうですが、敢えて言いたい。
俳句は別段高尚な文学ではないし、高名な俳人の作品を訳知り顔で「いやー素晴らしいっすね」と賞賛し座右の銘にしているわけでもないし、じゃあ何なのかと問われると答えに窮するのですが、一言で言わせて頂けば「その日その時その場所で、誰かの心をグッとさせる言葉遊び」に過ぎないし、ある俳句に対して自分の心をグッとさせるためにはそれなりに勉強と修練が必要で、俳句を知らない人々が感動する作品があったとしてもそれが名作である確率は極めて低く(例:伊藤園の新俳句)、逆に文学史に残るレベルの作品の凄味をそのような人々が理解出来るとはとても思えません。
つまり俳句は文学として欠陥品です。作品を作らない人にはその良し悪しを理解出来ない文学なんて、まあ俳句くらいのものでしょう。(自身は作句しないものの俳句批評家として大成した人もいることはいます)
俳句という文芸が何故そんなに閉鎖的なのかと言いますと、ここが一番のミソなのですが、『俳句を楽しむこと』は『句会を楽しむこと』と殆ど同値である、という事実を鑑みれば自明なのですよ。
句会とは、参加者が『匿名』で作品を持ち寄り、作者名を伏せたままそれらの俳句を好き勝手に批評し合う、というものです。議論が煮詰まったところで「それでは、この句の作者はどなたですか」と順次名明かししていく。自分が糞味噌にけなした俳句が師匠の作品だったり、褒め称えた作品が他のメンバーからは非難轟々で自分の選句眼の不甲斐なさに恥じ入ったり、みんなが自分の作品を激賞または酷評している中で平静を装っていたり、まあ俳句というのは江戸時代からそうやって楽しむものであったと言っていい。ちなみに短歌の世界でも「歌会」といってほぼ同様のシステムが営まれています。
で、句会なり歌会なりが終われば酒場に席を移して議論の再開。ただし今度は既に作者名が明かされていますから、「いやーさっきはごめんな」とか「君も上手くなったな」とか「こうしたらもっと良くなるね」とか「あんな句、俺は絶対認めないぜ」とか、酒が回るにつれいつしか話は脱線し夜が更けていくのです。
俳句はこの句会なくして成立し得ません。その時その場所にいる参加者の心をグッとさせる作品を狙って作るのです。それが俳句の正体であり本質であることは、山本健吉の至言『俳句は挨拶である』に集約されています。
*
たった十七音の世界です。過去数百年の間に生み出された作品は億万を優に超えるでしょう。その中で精一杯の詩情と独自性を表現するためには『暗黙の了解』の存在・ルールが不可欠で、それが俳句の限界であり、文学としての欠陥を内包すると前記した所以でもあります。さらにいえば、作者名によって価値が変わるという情けない事実もまた俳句の限界を露呈しています。『古池や蛙飛びこむ水の音』が松尾芭蕉ではなく、不肖・撫子パパの作品であったなら、恐らく一夜の句会である程度褒められはすれど、決して世に残ることはなかったのではないでしょうか。
*
だから、「ここで一句!」と言われても大変困るわけです。え、いいですけど百パーセント白けますよ?と。
上手な人ならそういう俳句を知らない人を喜ばせるような句を即興で作ることも出来るんでしょうが、それは中々難しいことなんです。
「それでは、ここで一句!」と言う人。
「松尾芭蕉ですね」と言う人。
「プレバト観てます」と言う人。
なかなか「自分もやってます」という人には出会いません。あ、患者さんは別ですよ。ご高齢の方には一定の割合で俳句を楽しんでおられる方がいて、回診のときなどベッドサイドに歳時記があれば「おや、あなたも」といくらでも話が膨らみます。
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噂によるとプレバトとかいうテレビ番組のお陰で俳句の『姿』を知る人が増えたとのことですが、それでもボクは、世の人の大半は「ちっとも俳句を分かってない」と言いたい。何様かと叱られそうですが、敢えて言いたい。
俳句は別段高尚な文学ではないし、高名な俳人の作品を訳知り顔で「いやー素晴らしいっすね」と賞賛し座右の銘にしているわけでもないし、じゃあ何なのかと問われると答えに窮するのですが、一言で言わせて頂けば「その日その時その場所で、誰かの心をグッとさせる言葉遊び」に過ぎないし、ある俳句に対して自分の心をグッとさせるためにはそれなりに勉強と修練が必要で、俳句を知らない人々が感動する作品があったとしてもそれが名作である確率は極めて低く(例:伊藤園の新俳句)、逆に文学史に残るレベルの作品の凄味をそのような人々が理解出来るとはとても思えません。
つまり俳句は文学として欠陥品です。作品を作らない人にはその良し悪しを理解出来ない文学なんて、まあ俳句くらいのものでしょう。(自身は作句しないものの俳句批評家として大成した人もいることはいます)
俳句という文芸が何故そんなに閉鎖的なのかと言いますと、ここが一番のミソなのですが、『俳句を楽しむこと』は『句会を楽しむこと』と殆ど同値である、という事実を鑑みれば自明なのですよ。
句会とは、参加者が『匿名』で作品を持ち寄り、作者名を伏せたままそれらの俳句を好き勝手に批評し合う、というものです。議論が煮詰まったところで「それでは、この句の作者はどなたですか」と順次名明かししていく。自分が糞味噌にけなした俳句が師匠の作品だったり、褒め称えた作品が他のメンバーからは非難轟々で自分の選句眼の不甲斐なさに恥じ入ったり、みんなが自分の作品を激賞または酷評している中で平静を装っていたり、まあ俳句というのは江戸時代からそうやって楽しむものであったと言っていい。ちなみに短歌の世界でも「歌会」といってほぼ同様のシステムが営まれています。
で、句会なり歌会なりが終われば酒場に席を移して議論の再開。ただし今度は既に作者名が明かされていますから、「いやーさっきはごめんな」とか「君も上手くなったな」とか「こうしたらもっと良くなるね」とか「あんな句、俺は絶対認めないぜ」とか、酒が回るにつれいつしか話は脱線し夜が更けていくのです。
俳句はこの句会なくして成立し得ません。その時その場所にいる参加者の心をグッとさせる作品を狙って作るのです。それが俳句の正体であり本質であることは、山本健吉の至言『俳句は挨拶である』に集約されています。
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たった十七音の世界です。過去数百年の間に生み出された作品は億万を優に超えるでしょう。その中で精一杯の詩情と独自性を表現するためには『暗黙の了解』の存在・ルールが不可欠で、それが俳句の限界であり、文学としての欠陥を内包すると前記した所以でもあります。さらにいえば、作者名によって価値が変わるという情けない事実もまた俳句の限界を露呈しています。『古池や蛙飛びこむ水の音』が松尾芭蕉ではなく、不肖・撫子パパの作品であったなら、恐らく一夜の句会である程度褒められはすれど、決して世に残ることはなかったのではないでしょうか。
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だから、「ここで一句!」と言われても大変困るわけです。え、いいですけど百パーセント白けますよ?と。
上手な人ならそういう俳句を知らない人を喜ばせるような句を即興で作ることも出来るんでしょうが、それは中々難しいことなんです。
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