同じ文章を読んだハズなのに、ある子はその中のコトバをしっかり吸収しているのに、ある子は全く身に付いていないのは何故なのか。
子どもが日常生活で浴びるコトバは非常に多く、その媒体がテレビやYouTubeであったり小説や図鑑であったり、両親や友達との会話だったりするわけですが、小学低学年の子どもにとっては未知の、或いは習熟度の低い、例えば意味を少なからず間違って覚えてしまっているコトバは数えきれないほど多いはずです。
そのコトバのシャワーの中から貪欲に語彙を吸収する子と、完全に素通りしてしまっている子の差はどこにあるのか。
記憶力の差か。論理力の差か。先天的なものを脇に置けば、『コトバのひっかかり』をどこまで鋭敏に知覚できるかの差が大きいとボクは考えます。
見聞きしたり自らの口から出たコトバが、本当にその理解でいいのか?あれれ、なにか変かな?、そういう「ふっと沸きあがるコトバに対する不安」を『コトバのひっかかり』と定義させて下さい。
国語のテストに関してよく耳にする「読めているのに解けない」とか、「いや、そもそも読めていない」のは、実はその文章なり設問なりで鍵となるコトバの意味を正確に理解出来ていないからだと思われます。本人は分かっているつもりなのに実は理解出来ていない、それが『コトバのつまずき』であり、子どもの(あらゆる)学習の大きな障壁になります。
『コトバのつまずき』が多い子は、当然、その語彙力が低いと推定されます。
コトバにつまずかないようにするためには、『コトバのひっかかり』に敏感でなければなりません。
情報にあふれ、その媒体も多様となり、恐らくボクの子ども時代よりも遥かに多くのコトバを浴びている子どもたちは、『コトバの素通り』のテクニックを知らず身につけているのではないか。彼らは忙しく、未知のコトバにいちいち立ち止まっている暇はないからです。こうして、『コトバのひっかかり』に対して緩徐に、そして着実に鈍感になっていくのではないか。読書を多くこなしていても、必ずしもその量と語彙力が比例しない現象の一因ではないか。
逆に、『コトバのつまずき』の恐ろしさを知れば、『コトバのひっかかり』に対して鋭敏になります。自分の言語生活の中で僅かに心をざわつかせる不安を無視しない。それがいつの日か大きな『つまずき』の種子になるかも知れないからです。
それでは、子どもに『コトバのひっかかり』を知覚させるにはどうしたらいいのでしょうか。
これはもう、『コトバのつまずき』を地道に体験させていくしかないのではないでしょうか。
テストで間違える。人前で恥をかく。そういう体験も大きな糧になるでしょう。親が子どものコトバをちゃんと聞いて、ずれた用法語法があれば指摘するのも有効でしょう。コトバの意味についてのディスカッションも恐らく効果があります。
我が家でも日常生活の中でいろいろ細やかな工夫はしてきたつもりですが、その効果は正直言って胸を張れるほどのものではなさそうです。
長女については、乳児期からの膨大な読み聞かせにより、他の子に比べればかなり早い段階で自分の言語世界を獲得してくれましたが、それはあくまでも早熟という範疇であり、その語彙力のリードを小6の最後まで維持できたかというとかなり疑問です。読書は好きだし作文も好きな子でしたが、『コトバのひっかかり』についての鋭敏さについては「まだまだだなあ…」と思っています。また、辞書を引くことの億劫さを未だに隠しきれていません。
長男については未知数ですが、読み聞かせ重視の戦略は同じといえど、その内容はほとんどが自然科学系の読み物であって、童話を好んだ姉の浴びた語彙とは畑違いのものが多いと考えられます。姉と異なり自分の考えや知識を表現・主張することが好きな子なので、出力という側面からの語彙体験を積んでいってくれればと思います。
子どもが日常生活で浴びるコトバは非常に多く、その媒体がテレビやYouTubeであったり小説や図鑑であったり、両親や友達との会話だったりするわけですが、小学低学年の子どもにとっては未知の、或いは習熟度の低い、例えば意味を少なからず間違って覚えてしまっているコトバは数えきれないほど多いはずです。
そのコトバのシャワーの中から貪欲に語彙を吸収する子と、完全に素通りしてしまっている子の差はどこにあるのか。
記憶力の差か。論理力の差か。先天的なものを脇に置けば、『コトバのひっかかり』をどこまで鋭敏に知覚できるかの差が大きいとボクは考えます。
見聞きしたり自らの口から出たコトバが、本当にその理解でいいのか?あれれ、なにか変かな?、そういう「ふっと沸きあがるコトバに対する不安」を『コトバのひっかかり』と定義させて下さい。
国語のテストに関してよく耳にする「読めているのに解けない」とか、「いや、そもそも読めていない」のは、実はその文章なり設問なりで鍵となるコトバの意味を正確に理解出来ていないからだと思われます。本人は分かっているつもりなのに実は理解出来ていない、それが『コトバのつまずき』であり、子どもの(あらゆる)学習の大きな障壁になります。
『コトバのつまずき』が多い子は、当然、その語彙力が低いと推定されます。
コトバにつまずかないようにするためには、『コトバのひっかかり』に敏感でなければなりません。
情報にあふれ、その媒体も多様となり、恐らくボクの子ども時代よりも遥かに多くのコトバを浴びている子どもたちは、『コトバの素通り』のテクニックを知らず身につけているのではないか。彼らは忙しく、未知のコトバにいちいち立ち止まっている暇はないからです。こうして、『コトバのひっかかり』に対して緩徐に、そして着実に鈍感になっていくのではないか。読書を多くこなしていても、必ずしもその量と語彙力が比例しない現象の一因ではないか。
逆に、『コトバのつまずき』の恐ろしさを知れば、『コトバのひっかかり』に対して鋭敏になります。自分の言語生活の中で僅かに心をざわつかせる不安を無視しない。それがいつの日か大きな『つまずき』の種子になるかも知れないからです。
それでは、子どもに『コトバのひっかかり』を知覚させるにはどうしたらいいのでしょうか。
これはもう、『コトバのつまずき』を地道に体験させていくしかないのではないでしょうか。
テストで間違える。人前で恥をかく。そういう体験も大きな糧になるでしょう。親が子どものコトバをちゃんと聞いて、ずれた用法語法があれば指摘するのも有効でしょう。コトバの意味についてのディスカッションも恐らく効果があります。
我が家でも日常生活の中でいろいろ細やかな工夫はしてきたつもりですが、その効果は正直言って胸を張れるほどのものではなさそうです。
長女については、乳児期からの膨大な読み聞かせにより、他の子に比べればかなり早い段階で自分の言語世界を獲得してくれましたが、それはあくまでも早熟という範疇であり、その語彙力のリードを小6の最後まで維持できたかというとかなり疑問です。読書は好きだし作文も好きな子でしたが、『コトバのひっかかり』についての鋭敏さについては「まだまだだなあ…」と思っています。また、辞書を引くことの億劫さを未だに隠しきれていません。
長男については未知数ですが、読み聞かせ重視の戦略は同じといえど、その内容はほとんどが自然科学系の読み物であって、童話を好んだ姉の浴びた語彙とは畑違いのものが多いと考えられます。姉と異なり自分の考えや知識を表現・主張することが好きな子なので、出力という側面からの語彙体験を積んでいってくれればと思います。
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