大学受験の世界では先取り学習が圧倒的に有利です。ボクは片田舎の公立中学から私立高校に進学し、中入組との学力差には本当に戸惑いました。なんせボクが初めて高校数学に触れた頃、彼らは既に高校2年分野が終わろうとしていましたし、英検一級や準一級がゴロゴロしてました。受ける模試もボクらは学年相当、彼らは一学年上の模試。
彼らの背中は遠く見えました。ホントに追い付けるんかいな、戦えるようになるんかいな。
結局ボクはギリギリ追い付きましたが、多くの仲間は浪人の道に進みました。
子どもたちを中学受験させたい理由の一つがこの大学受験での優位性のためです。
翻って中学受験における先取りはどうか。
その弊害を声高に指摘する方々がおられます。なぜ大学受験では誰も有害と言わない先取りを小学生に強いると非難されるのでしょう。
ボクの考えとしては『高校生と異なり、小学生の知的水準の個体差、知的発達速度の個体差、発達時期の個体差に大きな幅があるから』だと思います。
言い換えれば『学習の効率性を考えたとき、一人一人の適切なタイミングとレベル、速度の差がとても大きい』ということです。
例えば漢字。小学生で五千字を習得する中国人の例を持ち出すまでもなく、小学漢字なんていずれ誰でも出来るようになるわけです。
問題は「漢字が目的ではなく手段である」ということにちゃんと気付けているか。
普段読みもしない、耳にもしない、口に出しもしない、正しく語義を理解できていない語句の書き取りを、低学年のうちから強いることにどれ程の意味があるのか。
どうせ忘れます。もちろん忘れても復習すれば定着しますしその都度理解が深まります。が、その復習の理想的な形は「読んでる本に出てきた」「テストで問われた」「作文で使うために辞書を引いた」という、自然で言語的な出会いであるはずです。決して『地に足つかない先取りのままとしての復習』ではありません。
逆に、読書や作文など言語的に漢字と接することを優先してきたボクの娘は、読みは相当なレベルですが書き取りはダメです。だってちゃんと教えてないから。でも、一度教えると「待ってました!」といわんばかりにちゃんと書けるようになる。彼女にとってその漢字は既に何度も目にし、意味もよく分かり、日々の生活や学習でいつ出会ってもおかしくないという、非常に自然で言語的な学習だからです。
これと同じことが他の分野にも言えます。
娘が幼稚園の頃、公文式算数を止めさせました。小数や分数に手を付ける前のことです。あのまま進んでいたらどうなったでしょうか?(算数を嫌いになりそうという理由での撤退でした)
公文自慢のスモールステップで少しずつ淡々と進んだでしょう。そして例えば通分や約分、公約数や公倍数を親の知らないうちに習得していたのでしょう。でも、それにはどれほどの時間が必要だったでしょうか。
先日、約分・通分を含めた分数の乗除と素数、公約数や公倍数を初めて一度に教えました。夕食後のほんのひとときです。その場ですんなり理解し、早速トップクラスやハイクラスドリルの文章題のなかで使いこなしているのをみて、拍子抜けすると同時にこんな簡単なことに幼児期の時間を費やさなくて良かったと心底思いました。
身体的成長になぞらえば、幼児は背が低く足も短いのです。だから階段をのぼるにしてもいわゆる『スモールステップ』が必要です。ゆっくりゆっくりでも継続すれば、いつの間にか相当の高みまで到達出来る。これが公文というブースターの凄いところです。
ところが、子どもは放っておいても背が伸びます。一年前には越えられなかった障壁を、今日はひょいと軽々に越えてしまう。
どちらの方が効率的な学習でしょうか。
ボク自身、先取りは絶対的に大切だと考えています。十人十色の小学生、皆が皆同じスピードで成長するわけではありませんから。
でも、学習においては『今、我が子はどこまで先取り出来ているか』を目的にするのではなく、『我が子にとって今は何を先取りさせるのが効率的か』に留意すべきではないでしょうか。
彼らの背中は遠く見えました。ホントに追い付けるんかいな、戦えるようになるんかいな。
結局ボクはギリギリ追い付きましたが、多くの仲間は浪人の道に進みました。
子どもたちを中学受験させたい理由の一つがこの大学受験での優位性のためです。
翻って中学受験における先取りはどうか。
その弊害を声高に指摘する方々がおられます。なぜ大学受験では誰も有害と言わない先取りを小学生に強いると非難されるのでしょう。
ボクの考えとしては『高校生と異なり、小学生の知的水準の個体差、知的発達速度の個体差、発達時期の個体差に大きな幅があるから』だと思います。
言い換えれば『学習の効率性を考えたとき、一人一人の適切なタイミングとレベル、速度の差がとても大きい』ということです。
例えば漢字。小学生で五千字を習得する中国人の例を持ち出すまでもなく、小学漢字なんていずれ誰でも出来るようになるわけです。
問題は「漢字が目的ではなく手段である」ということにちゃんと気付けているか。
普段読みもしない、耳にもしない、口に出しもしない、正しく語義を理解できていない語句の書き取りを、低学年のうちから強いることにどれ程の意味があるのか。
どうせ忘れます。もちろん忘れても復習すれば定着しますしその都度理解が深まります。が、その復習の理想的な形は「読んでる本に出てきた」「テストで問われた」「作文で使うために辞書を引いた」という、自然で言語的な出会いであるはずです。決して『地に足つかない先取りのままとしての復習』ではありません。
逆に、読書や作文など言語的に漢字と接することを優先してきたボクの娘は、読みは相当なレベルですが書き取りはダメです。だってちゃんと教えてないから。でも、一度教えると「待ってました!」といわんばかりにちゃんと書けるようになる。彼女にとってその漢字は既に何度も目にし、意味もよく分かり、日々の生活や学習でいつ出会ってもおかしくないという、非常に自然で言語的な学習だからです。
これと同じことが他の分野にも言えます。
娘が幼稚園の頃、公文式算数を止めさせました。小数や分数に手を付ける前のことです。あのまま進んでいたらどうなったでしょうか?(算数を嫌いになりそうという理由での撤退でした)
公文自慢のスモールステップで少しずつ淡々と進んだでしょう。そして例えば通分や約分、公約数や公倍数を親の知らないうちに習得していたのでしょう。でも、それにはどれほどの時間が必要だったでしょうか。
先日、約分・通分を含めた分数の乗除と素数、公約数や公倍数を初めて一度に教えました。夕食後のほんのひとときです。その場ですんなり理解し、早速トップクラスやハイクラスドリルの文章題のなかで使いこなしているのをみて、拍子抜けすると同時にこんな簡単なことに幼児期の時間を費やさなくて良かったと心底思いました。
身体的成長になぞらえば、幼児は背が低く足も短いのです。だから階段をのぼるにしてもいわゆる『スモールステップ』が必要です。ゆっくりゆっくりでも継続すれば、いつの間にか相当の高みまで到達出来る。これが公文というブースターの凄いところです。
ところが、子どもは放っておいても背が伸びます。一年前には越えられなかった障壁を、今日はひょいと軽々に越えてしまう。
どちらの方が効率的な学習でしょうか。
ボク自身、先取りは絶対的に大切だと考えています。十人十色の小学生、皆が皆同じスピードで成長するわけではありませんから。
でも、学習においては『今、我が子はどこまで先取り出来ているか』を目的にするのではなく、『我が子にとって今は何を先取りさせるのが効率的か』に留意すべきではないでしょうか。
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