不要不急の外出を控えるとはいえ、何が不要で何が不急ではないのかが分かりにくいですね。
新型コロナウイルス肺炎の恐ろしさも、人によっては「国の、人類の危機だ」と感じるし、「主に高齢者だけが重症化する、ちょっとひどい風邪の一種でしょ」「致死率もエボラに比べたら大したことはない」「もともと高齢者は肺炎で亡くなることが多いし」と認識している人もいて。
医療者としては、これはもう身の毛のよだつ狡猾な悪魔のような病気です。八割は重症化せず、中には普段と全く変わらず生活出来る保菌者もいて、感染力はほどほどで、潜伏期間が長い(だから狡猾なんです)。しかし高齢というだけでいとも簡単に重症化し、人工呼吸器が必須になります。地域を担う救急病院が保有する人工呼吸器はあっという間に底を突くでしょう。
すると何が問題になるか。患者の選別です。
少しでも治る可能性のある患者に人工呼吸器を回す。その線引きは医師が行うしかありません。
最近は延命としての人工呼吸器を拒否する意向のご老人は多いですが、肺炎の末期は非常に苦しみます。余りに辛いので「殺してくれ」という方もいる。多くの重症患者は次第に酸欠から意識混濁していきますが、なかなか苦しみがやまない方もいる。
ボクは、延命のためではなく、緩和のための人工呼吸も必要だと思わざるを得ないケースを多々見てきました。安らかに眠りながら死を迎えられるからです。ご存知ない方も多いでしょうが、人工呼吸器にはそういう使い道もあるのです。
それが底を突く。
ただでさえ肺炎で亡くなる患者の多いこの国で。しかし、これもまた医療崩壊のワンシーンに過ぎません。
ボクなどは社会の経済活動とは離れたところにおりますので、『不要不急』の定義を普遍的に説明することは出来ません。大事な会議もあるでしょうし大切な懇親会もあるでしょう。春期講習に全力を注ぎ込みたい受験生もいるでしょう。
でも、いま日本の公衆衛生を襲いつつある疾患は、このペースで拡散すれば、高齢者に文字通り悪夢のような苦痛をもたらします。安楽死のない国で。エボラなんて可愛いもんです。
それを具体的に想像できるぶん、『不要不急』の言葉に重みを感じています。
新型コロナウイルス肺炎の恐ろしさも、人によっては「国の、人類の危機だ」と感じるし、「主に高齢者だけが重症化する、ちょっとひどい風邪の一種でしょ」「致死率もエボラに比べたら大したことはない」「もともと高齢者は肺炎で亡くなることが多いし」と認識している人もいて。
医療者としては、これはもう身の毛のよだつ狡猾な悪魔のような病気です。八割は重症化せず、中には普段と全く変わらず生活出来る保菌者もいて、感染力はほどほどで、潜伏期間が長い(だから狡猾なんです)。しかし高齢というだけでいとも簡単に重症化し、人工呼吸器が必須になります。地域を担う救急病院が保有する人工呼吸器はあっという間に底を突くでしょう。
すると何が問題になるか。患者の選別です。
少しでも治る可能性のある患者に人工呼吸器を回す。その線引きは医師が行うしかありません。
最近は延命としての人工呼吸器を拒否する意向のご老人は多いですが、肺炎の末期は非常に苦しみます。余りに辛いので「殺してくれ」という方もいる。多くの重症患者は次第に酸欠から意識混濁していきますが、なかなか苦しみがやまない方もいる。
ボクは、延命のためではなく、緩和のための人工呼吸も必要だと思わざるを得ないケースを多々見てきました。安らかに眠りながら死を迎えられるからです。ご存知ない方も多いでしょうが、人工呼吸器にはそういう使い道もあるのです。
それが底を突く。
ただでさえ肺炎で亡くなる患者の多いこの国で。しかし、これもまた医療崩壊のワンシーンに過ぎません。
ボクなどは社会の経済活動とは離れたところにおりますので、『不要不急』の定義を普遍的に説明することは出来ません。大事な会議もあるでしょうし大切な懇親会もあるでしょう。春期講習に全力を注ぎ込みたい受験生もいるでしょう。
でも、いま日本の公衆衛生を襲いつつある疾患は、このペースで拡散すれば、高齢者に文字通り悪夢のような苦痛をもたらします。安楽死のない国で。エボラなんて可愛いもんです。
それを具体的に想像できるぶん、『不要不急』の言葉に重みを感じています。
- 関連記事